「出る」と「出す」は全く違う言葉。息子の言動から古代日本に思いを馳せる。
こんにちは、食たまです。
2歳になるまで全く話せなかった息子も、2歳半を過ぎた頃から徐々に言葉が増えてきて、最近は毎日どんどん新しい言葉が増えています。
「出す」と「出る」が言えるようになりました。
そんな息子は話せる動詞も増えてきました。
そして、以前から「でる」を使っていたのですが、今日になって「だす」も言えるようになりました。
ちゃんと自動詞「出る」と他動詞「出す」を言い分けられるんだなと感心して見ていました。
漢字は共通でも違う言葉かもしれない
しかし、ふと気が付きました。
「でる」と「だす」
漢字は同じですが、音は「で」と「だ」です。そもそも違う言葉なのではないかと。
息子も、違う言葉として認識しているのではないかと。
何かが外に移動するという点では同じなので、漢字が一緒であることに何の違和感もありません。
同じ言葉の自動詞と他動詞という、謂わば活用のようなレベルの違いだと感じていました。
でも、本当は、「立つ」と「座る」のような全然別の単語なのではないかと考えたのです。
ちなみに、Google翻訳で英語を調べてみました。
「でる」は go out
「だす」は put out
やっぱり、外にを意味する「out」は共通ですが、動詞そのものは全くの別物です。
この2つの単語が別の単語であっても何の不思議もありません。
漢字のデメリット
日本には元々文字がありませんでした。
そこに漢字という文字が伝わり、日本語を漢字で表記する試行錯誤が行われた結果、
今の漢字と平仮名、片仮名が混ざった日本語があります。
漢字は世界でもかなり珍しい表意文字です。
つまり、アルファベットや平仮名のような読みを表す文字ではなく、1字1字に意味がある文字です。
これのお陰で、中国の方と筆談できたりします。
パッと文を見ただけで、読まなくてもパッと意味がわかります。
すごい発明だと思います。
さすが中国です。
ですから、私は、漢字の伝来にはメリットしかないと考えていました。
しかし、過去に漢字の伝来にもデメリットがあるという主張を耳にしたことがあります。
日本語は日本人の感性から生まれた物だが、それを無理やり中国人の感性で生まれた漢字に当てはめたことで、日本人の感性が伝わりにくくなったというデメリットです。
例えば、
「かく」という言葉があります。
「書く」と「描く」は同じ語源なんだろうなと容易に想像できますが、
実は、「欠く」も同じ語源だというのです。
土器や地面を「欠いて」文字や絵を「かいて」いたことから、
文字を「書く」、絵を「描く」という言葉が生まれたのだそうです。
この日本人の刻むにも近い、「かく」の持つニュアンスが「書」「描」という字を当てたことで伝わらなくなった。
これが、漢字のデメリットです。
目からウロコとはこのことです。
確かに、物ごとにメリットしか無いなんてことはありません。
メリットもデメリットもあるはずです。
この漢字のデメリットも一理あると思いました。
息子はどう認識しているのか
話は戻って、息子の「でる」と「だす」の話。
まだ漢字を知らない息子から見たら、
「でる」と「だす」はどの様に見えているのでしょうか?
今の息子が話せる動詞は、ほとんどが漢語ではなく和語です。
大昔、まだ漢字が伝わる前の純正の日本語を生み出したご先祖様と似たような感覚なのでしょうか?
話せないけど、漢語もバリバリ使っている私たちに囲まれて、現代の日本語しか聞いてないので、ご先祖様ともまた違う感じ方をしているのでしょうか?
聞いてみたいですが、そんなことを詳しく話してくれるはずもなく、息子の言動から観察して推察するしかありません。
でも、そうやって息子の言動を通して、遠く漢字伝来前のご先祖様の感性に思いを馳せるのも面白いものです。
自分で勝手に想像を膨らませて楽しみたいと思います。
おわりに
息子が「でる」と「だす」を話せるようになりました。
「出」という漢字のせいで、勝手に2つを同じ単語だと思っていましたが、
音は「で」と「だ」で異なる言葉であることに気が付きました。
漢字を知らない息子は、この2つの単語を全く違う単語として認識しているかも知れない、
漢字が伝わる前の本来の日本語の持つ意味も、全然違ったのかも知れないと考えました。
まだ漢字を知らない、漢字伝来前のご先祖様に近い息子の言動から、
遠い日本のご先祖様の感性に思いを馳せる、
そんな楽しみ方もありかなと思う今日この頃です。